時は江戸時代。舟盛りの歴史は今から約160年前に遡る。1860年(万延元年)4月、福井藩主の松平茂昭(もちあき)公をおもてなしとして振舞った事がはじまりとされている。書物に記載されている「鯛または大いわし」が元祖舟盛り料理であったと言われておりその華やかな見た目が話題となり、地元に広がり、さらに北前船の航路にのって近江商人に伝わり全国に広がったと語り継がれている。
元延元年(1860年)4月。伊藤家五代当主 伊藤五右ヱ門は、安政の大獄で隠居を命ぜられた松平春嶽の養子である、糸魚川藩の茂昭(もちあき)公の初の国入りの大役を仰せつかることなった。その当時の五右ヱ門の日記によると、4月20日に安島より宿浦(現在の宿地区)に入られた茂昭公は、北前船(順祥丸)の中に入り、帆の巻き上げや碇の上げ下ろしなどをされ、翌日には、福井藩の砲台の御説明を受ける。
この時、五右ヱ門をはじめとする宿浦の一行が「おもてなし」として振舞った料理が次の通りである。
長谷川 五右衛門
「おもてなし」料理として生まれた舟盛り料理。
「元祖舟盛り料理」を考案したのがこの三国の地で庄屋(村の首長)を務めた伊藤五右衛門である。五右エ門は、お殿様の国入りの際、「振る舞いは質素で」と言われていたが、「本音と建て前」を心得え、お迎えの際は、非常に気苦労をしたことが記録に残っている。
庄屋の威信をかけて工夫を凝らした「元祖舟盛り料理」はお殿様を満足させたことはもちろん、後世に語り継がれることとなり「ふるまい料理」としての名を刻んだ。
華やかな見た目が町で評判となり、北前船の航路に乗り、近江商人に伝わり全国に広がったと今でも口伝で地域に語り継がれている。
主要ルートとして「中山道」「西廻り航路」「滋賀琵琶湖を経由した関西」の3つがあると言われている。
みくに隠居処 十一代目 代表 伊藤 俊輔
かつての人も、現代の人と同じよう、自分の心と体を癒す隠れ家を望み、探したのであろう。隠居所は、末の四賢候としても名高い松平春嶽の教育係で参謀でもあった中根雪江が宿浦(宿地区)に作った隠宅「煙波楼(えんぱろう)」を、庄屋をしていた五右ヱ門が譲り受けたことが名称の由来となっている。
隠居所は、その居心地の良さから寝泊りをする者が増え、明治・大正期には、簡易宿舎「清風亭」、昭和・平成にかけては料理旅館として「伊藤旅館」を営む。その後、建物の老朽化に伴い、平成17年を最後にながらく休業中であったが、語り継がれる当時の賑わいを今一度、復活するべく、11代目が200年以上の時を経て再起を決意、現在に至る。